【コラム】どうしてこの仕事を始めた~会社員編~

私の仕事はマルチクリエイター。デザインの仕事、イベントの仕事等色々なことをクリエイト(創り出す)する。その昔、”遊びをクリエイトする”というCMが一斉風靡した企業がある。その企業に気が付いたら就職していた。そのCMを令和の時代になって見てみると、かなりかっこいい。よくもまあ、こんな発想が出来たなと思うのだ。あの会社の風土から考えるに電○や博○堂等に丸投げはしていないと思う。

Classic japanese game commercials #36 – Namco Special 1980s Era
ゲームゲームしていないセンスがすごすぎる

私がいたのは店舗営業、いわゆるゲームセンターの部署。現地でアルバイト採用されて、そのまま契約社員。そこから正社員登用という新卒よりもハードルが高い試験に合格。20歳1994年のこと。まだ、20世紀のこと。今となっては死語に近い”上場一部”に若干20歳で正社員登用された。ある意味奇跡。同機は全員年下という飛び級の様な現象と年齢と学歴で給料クラスが確定するという昭和な制度で悩むことになったのだ。そこから10年程度ゲームセンターの管理を行った。当時のナムコは遊び心が会社になったような状態。現代のGoogleやyahooといった会社の様な状態企業理念は”人間は遊ぶ存在である”を具現化した会社だった。ちょうどショッピングセンターの大型化がスタート。イオンの前身のジャスコが郊外に巨大ショッピングセンターを次々を作り、食品スーパーもこぞって食品スーパーを企画していた。今となっては廃墟ショッピングセンターの基礎が出来ているといってもいい。そのショッピングセンターでキャラクター(いわゆる着ぐるみ)のショーを行ったり、さながら、テーマパークの様な運営を”勝手に”行っていた。着ぐるみのパンダがクリスマスケーキを配達したり、720坪ある店内をパレードしたりと、残業は平均ウン十時間が当たり前だが、気にしない会社でもあった。

2005年に転機が来た。フードテーマパークに異動になった。どうも、別の人間がいたのだが退職した為に白羽の矢が立った。その当時のマネージャー(課長級)からの内示では「時代の最先端の最先端」に行ってもらうと言われた。当時フードテーマパークはテレビや情報誌のトップを飾るネタだ。10ページに渡る特集を組まれることもあった。そこでデザートブースとして3ヵ月代わりのスイーツコーナーがあった。そこのプランを担当することになったのだ。自覚は全くなかったのだが後になってそれがイベントプロデューサーという仕事だったらしい。一つ言っておくがイベンターという役割があるが、個人的にはイベントプロデューサーは事業としてイベントを行う人、イベンターは単発でイベントを行う人。行う範疇が全く違う。時代の最先端ということもあり、会社からの予算は数千万円。私の決裁権限は0円だったがそんなのお構いなしに色々なことをやった。

南海キャンディーズ、「しずちゃん等身大」巨大チョコ完成 : よもやま日報
人気お笑いコンビ「南海キャンディーズ」が出演する関西テレビ「南海パラダイス!」がバレンタイン企画として作製した「しずちゃんの等身大チョコレート」が完成。「チョコスイーツ博覧会」を開催中(3月14日まで)の大阪市北区・浪花餃子スタジアムで21日、お披露目さ

全国のお取り寄せタルトを集めた、タルト博覧会。餃子スタジアムということで輸入ビールを集めた”ビールだよ全員集合!”(我ながらふざけたタイトルだ)では約80種類のビールを全て試飲して感想を書いた。お取り寄せチョコスイーツのイベントでは目玉イベントとして、当時衝撃のデビューを果たした南海キャンディーズのしずちゃんの等身大チョコも作った。これはテレビ局(関西テレビ)と雑誌社(講談社)とのタイアップ企画。企画自体は当時の広報が持ってきた。打ち合わせは夜の10時からは当たり前、残業時間は300時間近くなった。夜中に店内一人で倒れたこともあった。どうにかこうにかイベントが終わって少し暇になるということだったので、まとめて有給休暇を申請したら、名古屋の新店のオープン応援が入った。そこから通常の店舗に戻る辞令が下りたのだが、大阪の事務所に戻れないので課長が名古屋まで来て内示をしてきた。

そこからの10年は暗黒の10年。華やかな部署から普通の部署に戻ると、仕事が地味で面白くない。さらに経営不振もあり、店での活動には大きな制限があった。イベントもろくに出来ない。そりの合わない上司についてしまったこともあり、店長だったのだがあっけなく降格。その理由はホールにあまり出ないかららしい。今思っても、バカげている理由だ。管理部署に入れられ、色々な店にたらいまわし。性格はどんどんねじれていった。後輩の下に付けられ、通勤時間が車で2時間を超えることもあった。この10年仕事では得られることはなかった。その代わり研修をひたすら受けた。新しい刺激を受けないと腐ってしまう様な気がした。なお、収入は最盛期の1/3になった。最終的には精神疾患を患っていた。会社の中には見方はいなかった。

最後の部署に移ったのは2012年アルバイトを始めてから20年経っていた。もはや邪魔な存在だった。社内の視線が痛い状態だった。そこからの2年間が今があるきっかけだ。店長から外されることになったが、ホールに出ない理由は数字を見ていたからである。店の状況や予算を作る本部のクオリティは予算書に出てくる。店にどうどうと本部予算にすべき内容を載せることもあれば、予算ではなく妄想という売上予算を組むこともある。バカな課長連中は、根性論でその予算を越えろと言っていたのだ。予算書を完全に理解していた私がやったことは、社内ルールOKな範囲で利益を生み出す。色々な見えないコストカットで予算削減を達成させることだった。しかし、そもそも私の風当たりは厳しい。その当時の上司はそれと同時に土日は店の応援を課した。平日も搬入等の応援で店。店の範囲は枚方から和歌山の田辺まで。さらに残業も大きく制限されている為に直行直帰が基本。事務所の私の机は週に2日程度使う程度だ。ノートパソコンを持たせてもらえなく、社内システムにログインするには店のデスクを借りた。社内ノマドと言うべきか、社内ホームレスと言うべきか。

ただこの頃の上司は評価をしてくれていた。仕事ぶりとクオリティから今のポジションを憂いてくれていた。低すぎる給料と社内評価の低さ。だからこそ厳しい環境を課したと理解している。数字を読み、本部の無茶ぶりから”長くない”と思っていたら案の定希望退職が発生した。それに乗って退職した。親の借金があったからだ。そこで退職して、副業でやっていたデザイン業で食べていこうと決めた。厳しい環境を乗り越えたからなんとかなるかと思ったのだ。もうすぐ独立して8年目になるのだが、厳しい環境での経験が生きている。そして、この時の上司に習ったのは、花を贈るということ。

去年、花を贈られた。8年間大切にしている価値観を共有出る人に出会えた。

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